布団が重い
正しい理解というものがあるのかどうか、だとか、多様な理解があってよいのだとか、人は言う。
だけどそれ以前に、
人間には誤解する自由がある
このことをみんなもっと憎んで欲しいように思う
だけど、じゃあ体力気力の続く限り、自分の理解を疑い続けることが、よりマシになる方法、贖罪する方法なのか
そうなのだよと踏ん張るのも、あんまり興がない粋じゃない気がしてきた
こんな話しの次に行きたい
こんな話しの次に行きたい僕は、
外国で外国人と話している時に、無邪気に「私の国では〜」と母国民をひとくくりに語る人たちの、あの自由で前向きな感じだとか、
握りしめたクレヨンで、画用紙の消防車をごりごりと、クレヨンの破片をこびりつけながら、赤く塗り潰していく、迷いなき幼児の決然とした塗りっぷりだとか、
あとは我が家の、どこまでもびろびろともさもさと、延びていくうねっていく棚の上の淡い深緑色のポトスだとか、
こいつらの気分に、成長しない僕のもちゃもちゃを蹴散らしてくれる力を感じる。要するに羨望である。
だけど今の僕に必要なのは気分だとか力だとかそんなふわふわしたものじゃあないんだ
結論と結果が早くわかるような戦場と、歯車噛み合わせてフル回転したくてうずうずしてるんだ
うずうずに飢えた僕はうずうずしてるんだ
深夜の日記、布団のなかで
陶淵明の酒
- 作者: 陶淵明,松枝茂夫,和田武司
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詩人が詩に酒を出すことは多いです。しかしそれぞれ、まったく別の意味合いがあることがあります。簡単に3種類挙げてみます。
第一に、李白・王維的な、友と飲みかわす、ああ楽しい酒よ!星も美しく遠いかがり火も美しい!などというときは、社会や人生や自然に対して肯定的で、その喜びを加速させてくれるものとして出てきます。「人間肯定の酒」と呼びましょうか。
酒を祭りや儀式に用いて死や喪失への恐怖をごまかしてくれる力を得ようとする場合もこれに含まれるでしょう。
第二に、種田山頭火など、トラウマやマザコンでダメダメな男たちが、人生から逃げるために耽溺する酒も詩には出てきます。「自己否定の酒」と言いましょうか。
無意識の解放というか、無意識への逃避というか。そういう確信的に依存しているものです。
第三に、例えばオマル・ハイヤームなど、人生も命も宇宙も全てが全く無意味だ、ただひたすら酒を飲もう、酩酊状態が、無意味という真実状態に自分を近づけてくれる、というときは、刹那の悦楽に唯一の美を見出すという、非常に前衛的な刹那主義・耽美主義の象徴として出てきます。これを「唯美的な酒」と呼びましょうか。
また、これら3つの酒の間で、移行していく場合もありましょう。
例えば、「自己否定の酒」が深まると、なんで俺ばっかりこんなゴミみたいな運命なんだと、ひとりで無駄に悩む果てに、いや、人間や命全部がゴミなんだ、隣のかわいこちゃんの白い胸元も無意味な美なのだ、と(酔っ払いなので)ぶつぶつつぶやいていると、(つぶやきながら口説いていると、)
さらに隣の席で、酒ばかり飲んでほんとに人生を棒に振ってしまったので本当に虚無的になってしまったカリスマ(酔っ払い)に出会ってしまったりなどすると、
(名言(酩言)を吐く酔っ払いいますね。)
ただくよくよしてるだけの「自己否定の酒」が「唯美的な酒」に目覚めてしまう場合もあります。
そして、夜が明けても、この虚無的で唯美的な気分が持続した場合(二日酔い)、真の唯美主義的詩人が覚醒してしまうことになるのです。
それから、とりあえず3分類をしていますが、「自分ー人間(自分以外)」軸、「肯定ー否定」軸を用いているので、論理的には、「自己肯定の酒」も「人間否定の酒」もありえると思います。しかし、それらはあまり詩として深くも美しくも(酒の肴として美味しく)なさそうだからか、あんまり該当する詩人が浮かびません。(自分以外否定の酒は、愚痴り酒になりそうですね。)
さて、3分類で行くと陶淵明は、ひきこもりで他人と飲みかわすのが楽しいと言ってる感じもちょっと弱いので、「人間肯定の酒」ぽくない。また家族と郷土に軸足を置き、適当に官僚も勤めており、そう破滅的でもないので、「自己否定の酒」でもない。どちらかというと、「唯美的な酒」ですが、美に耽溺する方にハンドルを切ってるわけではない。家族と郷土を愛することに美の軸がありますよね。
というわけで、この3点評価から見ても中途半端と言え、陶淵明は実に「ほろ酔い」加減でいいお酒を飲んでいるのだな、と思われます。
しかし、これらのどの極端な酒にも移行せずに、ほろ酔いをキープしているというのは、僕は非常に難しいことだと思います。彼の人格のバランス感覚が非常にすぐれているからだと思います。酒はバランスをとるために飲む場合もありましょうが、理性を損なうものでもありましょう。
これが彼に儒教的教養が染みついているということの素晴らしさで、辞めても辞めても仕事が来たことの裏付けでもあると思います。
たまに稼ぎに出たのは、ボツ交渉はそれはそれでまた道に外れるし現実的でないと思ったからでしょう。あーあ人付き合いは面倒だなーって詩に書くのはそういう皮肉な含意があると思います。
エリートでありながら、乱世に適応せず(できなかったのか、したくなかったのかはともかく)、
かつ、人生の軸を失せず家族を守り通し、さらに自分の詩の世界も守りとおした彼は、
僕は人間として極めて非凡だと思います。愛すべきすべてを手に入れた人物だからです。
詩は神経の平衡を維持する上で必要な、プライベートな芸道だったわけで、
だから生前はあまり外に発表されなかったのでしょう。
生きながら焼かれてえ
あそーそーり、おもしろい失言をください。
あーこいつ、本気でやってるな、っていうような。
選挙直後の敗戦の弁や辞任の表明は、なかなか神妙で、落ち着いており、きれいだった。
でも、そんな、立つ鳥跡を濁さずとか、つまんないだろ。
首相が選挙で負けたんだぜ。
政治ってさ、黄ばんだ脂汗と生臭い精液を、芬々(ふんぷん)と撒き散らして、俺こそが史上最高の悪臭なんだ、どうだ、どうだ、オレサマどうだ、と老若男女見境なく関係を迫り、渦に巻き込んでは犯し倒していく、強欲罪業ものともせずな修羅の道なんじゃないの?
金メダルをかじって笑うスポーツじゃないんだよ。
フェアプレーなんて死ねばいい。
潔いやつに票入れたって、国は生き残れないんだよ。
殺しても死なない奴に、票(依存心)は集まるんだ。
無力ぶる怠惰な大衆は、すがりついて、食いつくして、ぶら下がって、引きずりおろすだけ。
小沢は、計算で勝った。計算で権力が手に入るようでは、これは国民の負け。催淫剤を打たれた勃起を指して欲情と言うのは、人間性に対する侮辱である。
(せめて麝香(じゃこう)のムードが欲しいがこれはまた別の次元の話。)
政治家ってのは、敗北しても、息の根がある限り、匕首を咥えて飛びかかるようでなくちゃ。、
周囲の親切で小心な小市民たちの手前、うなだれて見せる必要はあるかもしれないが、
ほんとにうなだれないで欲しい。今頃、裏で走り回って居て欲しい。権力になびき裏切っていく人たちの、握っていた弱みを小出しにしていくくらいであって欲しい。
それが権力に対する、飽くなき誠意というものでしょう。
政治家は名誉職ではなく、専業制なのだから、権力の傀儡(くぐつ)として洗練されてくれなければ、システムが機能しない。
この点、亀井静香は洗練されてるよね。
連立が組めたときのあの涙は、とても美しい。素晴らしい。パチパチ。
でも、二人とも、日本の国を前に進める力がないので本質的には無視されるべき。
権力は、道具に過ぎず、しかも消耗品である。
道具への執心は、一流の宮大工のように入念であるべきだが、
大事なのは、無論、道具を駆使して建てる建物の出来栄え。
(ちなみに、この連立は、小沢が次の参院選も欲しいという前倒しの貪欲さがたたり、本末転倒して足をとられる結果になると、やはり本質的な政治・政策で国民と真っ向勝負してないのに、3勝できるほど日本国民はあまくないよね、ってなり、小沢の花道が汚れて、これまた美しい幕引き。)
それにしても自民党、反省しきりの理性派の弁は、当たり前すぎて耳元スルー。
主流派降板でちょっと陽があたり出した非主流派たちも、敗戦は俺のせいじゃないし的な立場から出てこないっぽくて、相変わらずエラくない。あーだから主流になれないんだなって感じ。
もっとも細田幹事長の、「まー勉強なさってください。お手並み拝見。」ってな上から目線の傲岸さにはちょっと期待が持てるが、いかんせん、か弱い。
屈辱が呼び覚ます、権力への獰猛な野心に、戦前戦後の日本を支えた男たちのエネルギーを感じたい。草食系自民党なんて、いよいよ笑えない。
あそーそーりへ
炭鉱に搾取構造を築きあげた、川筋物の頭領の血筋は、何も言わないのか。沸々と、大動脈の中で雄叫びを上げていないのか。
口の端っこだけじゃなくて、全体をひんまげきって、目をひんむいて、大見栄を切ってくれ。
むき出しの憎悪や。ゴミどもが調子に乗るなとか。愚民よ、この盲目な者たちよ、の陳腐な類の傲慢でも、この際、いい。
何か、のけぞるような毒をくれ。
宰相をやる器量にしか放てない悪臭をぶっ放してくれ。
目を覆うような醜態をさらしてくれ。
政権交代だけでは、不足なのだ。敗者の悔しみに、二大政党制の手応えがあるのだ。
戦いは終わらないのだから、しおらしい敗者が一番醜い。
神によって地獄の底にたたき落とされたルシファーの、
「一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ。」
失楽園。こういうのが美しいのだ。
でもやっぱ失言は、リスクがないとキレがでないものなのかな。
もともと首相になれればゴールで、余生は俺は正しかったと言い張り続ければいいだけの、そんな覇気のない人だったということなのかな。
談志の体調がすぐれないという。
たけしも、社会良心のインフラになりつつある。タモリは人任せの番組運び。
(若いころのタモリは深夜ラジオなんかで、早口で辛辣な毒舌をまくしたてていた。)
日本から毒の火が消えていくよ。
食べ物に飢えなくなって久しいからだろう。
ネバーランド
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ピーターは父を亡くしたとき、泣くことができなかった。
しかし今また母を亡くそうというとき、物語を書くということを教えてくれた人がいた。
現実逃避の方法はいろいろとあって、空想もその一つになりうる。
しかし、物語はいつも、現実との向き合い方でもあってきた。
愛する者への、愛し方であってきた。
耐えられない悲しみに対する説明の仕方であり、
みなもそうであったであろうよ、よくある話であろうよ、という慰めでもあってきた。
優しい少年は、残酷で繊細なリアリストであることがある。
観察は鋭く感受性が高くとも、
幼すぎる場合、深い傷をもつ場合には、
日記もろくに書けないほど、現実に愛着を持つ手がかりを持てない。
しかし、それでは、強く自分を支えることも、余裕によって他人を助けてやることも抱きとめてやることもできない。いわんや、病床の、また召されて逝く母親のことも。
自分の人生を愛しはじめること、眺めて転がし、よく寝かしつけよく奮い立たせること。
客観的に見始めること、他人と自分を同じ目で見ることができるようになること。
物語を書こうとするということは、一気に人を大人にさせてくれる。
それを教えてくれた人は、これからもずっとそばにいてくれるようだ。
ジョニデは天才作家の役どころだが、自分の才能に全く陶酔せず、子どもたちと無邪気に遊ぶ感じが天才の自然の在り方という感じでよい。
創作は人格を引き裂く。責め抜く。逃げられないし誰も助けられない。
しかし、無邪気無心の真ん中から、転げ落ちずによたよたと歩いていければ、大きな楽しみである。
ピーター・パンという作品を生んだ作家を巡るこの話、劇場の経営者として、スピルバーグの「フック」でフック船長を演じたダスティン・ホフマンが出演していたのは、個人的に心憎いと勝手に思った。